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皇室関係の報道を集めて紹介しています。女性宮家に反対、男系男子継承絶対の立場です。

皇室はどうしてここまで落ちぶれたのか(2)

皇室はどうしてここまで落ちぶれたのか(2)

 

サンデー毎日「勁(つよ)き声~美智子さまとその時代」シリーズ3回目、後半部分を見ていきます。

 

前半については、↓に書きました。

 皇室はどうしてここまで落ちぶれたのか(1) - ootapaper

今回紹介する後半部分には、宮内庁美智子さま)から訂正が入っています。

「サンデー毎日」(平成30年7月1日号)の記事について - 宮内庁

訂正された箇所にはをつけて後に宮内庁の訂正文を載せることにして、先に本文をそのまま見ていきたいと思います。

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念のため、もう一度、書き手の工藤美代子さんは誰に取材しているかをもう一度書いておきます。

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取材を受けているのはピンクの元華族の香子さん(仮名)。

香子さんの母、美嘉さん(黄色の方)が牧野純子さんと一緒に習い事をしたり、週に何回も行き来をするほど仲のいい間柄だったため、娘の香子さんも純子さんを良く知り、純子さんから直接心情を聞いた数少ない一人として取材を受けています。

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お話の中心になるのが、後ろからこちらを見ている牧野女官長(故人)。

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純子さんの父は、佐賀藩 鍋島直明は、華族で陸軍軍人、政治家。

陸軍少将、正三位、勲二等、功四級、男爵。貴族院議員。

鍋島直明 - Wikipedia

純子さんは、牧野伸顕氏に是非にと期待されて、伸顕の息子(伸通)の嫁になった。

4 伸通氏宮内庁の内部部局である 式部職で式部官を務めていた。

2 牧野伸顕(大久保の息子でありながら名字が違うのは、一度牧野家に養子入ったため。戊辰戦争で養父が亡くなった後、牧野の姓を残したまま大久保家で育つ。)

2 牧野伸顕は、明治40年に男爵、大正9年には子爵。農商務大臣、枢密顧問官、外務大臣宮内大臣などの要職を歴任した。文面にはありませんが、昭和天皇の側近的役割、内大臣に就任し、1935年まで在任していたとも書かれています。

純子は58歳で東宮女官長となり、やめたのは68歳の時だった。10年にわたって美智子さまに支えた計算になる。

 

「ゲバってた」ー美智子様と純子女官長の関係の象徴的な言葉として

この言葉は香子さんが、純子さんと母親が電話で話した後に聞いた言葉。

『あのふたり、まだゲバっているみたいよ』

ゲバるとは、学生運動が盛んな頃に、『ゲバる」「内ゲバ」「ゲバルト棒」などという表現が日常でも使われていた言葉のようです。

闘争という意味だけれど、家庭内での喧嘩まで「内ゲバじゃないの」などという冗談めかした使い方をしていたと書かれている。

この記事全体に出てくるのは、タイトルにもある通り「しきたりと自分らしさの狭間」での戦いになっている。

自分らしさを大切にする美智子さまと「伝統としきたり」を大切にする女官長牧野純子氏。

それが以下に出てくる、ファッション、子供を抱く抱かない、など様々なところで「ゲバる」ことになっていく。

工藤さんはこれを、 

美智子さまが皇太子さまと共に戦後の新しい皇室のあり方を模索していくプロセスの中で、最初に起こった摩擦のようなものではなかっただろうか。

皇太子さまと共に皇室の改革に向けて歩む美智子さまと、戦前からの伝統を守ろうとする人たちが相入れるのは容易なことではなかった。

と書いている。

 

 

「ペチコート事件」と呼ばれる、美智子さまの服装に関する出来事

この件を書く前に、と、もう一度以下のようなお断りが入っている。

この「事件」について述べる前に再度はっきりさせたいのは、これから述べることが、香子さんやその友人、親戚など守旧派(皇室の伝統を重んじる人々)の意見や記憶であるということだ。また、一方的な見解だという批判もあるかもれない。それは承知の上で、私はオーラルヒストリーとして、純子が香子さんの母親に語った体験談を採集しておきたいと考えた。*1

f:id:ootapaper:20180720220832p:plainサンデー毎日7月1日号から

 

普通、妃殿下が伊勢神宮にいらっしゃる時のお召し物は、白っぽいローブモンタントと決まっているのだという。

ローブモンタントとは、襟元を大きく開けず、長袖のロングドレスで、肌を隠すもの。全体の線がまっすぐにストンと落ちるようになっているデザインで、帽子と扇子もいるという。

皇室では通常は昼用の礼服とされている。

 妃殿下のあとをついて歩く女官も、やはり同じような地味なお洋服を着る。

ところがね、その時の美智子さまの洋服はお洋服は“スカートがパーッて広がって、針金がぐるぐる入っている”宝塚みたいなスカートだったという。(*2)

 

ここからは、そのお召し物を皇室の伝統的なものにしなければとペチコートの針金を取ってしまう純子女官長と、それをまたつけさせて、あくまでも針金付きのペチコートのスカートを履こうとする美智子さまについての、香子さんが聞いた証言が続く。

 

「あの朝は禊をしなければいけないんです。お風呂場で女官長も水だかお湯をかぶるんですよ。それで純子おばさまは先に出てお支度をしてお待ちしていたら、美智子さまのお支度があって。美智子さまのお召し物に仰天したおばさまが、こういうお洋服は普通は伊勢神宮ではお召しにならないから、ちょっと針金を取らせていただくことにしたわけ。せめて針金を外してスカートを広げないようにと思って。でも、その針金が中の方に頑丈にぐるぐるくっついていたんですって。スカートはしぼんじゃうけど、とにかく取ってしまったの」

「え?美智子さまにはご了解を得ないでですか?」

「だって、どうしようもないですもの。でもおば様は女官長だから、着付けとか禊のお手伝いはなさらない。それは女嬬(にょじゅ)(雑事をこなす女官)とか他の女官さん達がお世話するの。ところが、お支度が終わって出てらしたらね、妃殿下が針金をまた付け直していらしたんですって」

「ということは?」

「さあ。とにかく付け直しなさいと女嬬にでもおっしゃったんじゃないですか。それで今度は純子おば様が、女官にとりなさいって命令なさった。それはやはりつけたままでなくてはと、また妃殿下がお命令で、ゴタゴタと2回くらい言い争ったそうです。『もう戦いだった』って、おば様はそうおっしゃっていたわ」(*2)

 それは戦うほど、大切なことだったのかという工藤さんの疑問に、

そうなの。わたしだったらね、たとえおかしかろうが何だろうが、もう、しきたりがそういうものなら仕方がないと思いますよ。『どうでもいいや』って諦めます。それが、あちらにしてみたら、なんでこんな失礼なことをするのか、変な洋服にさせるのかと思われたでしょう。でもね、こちらにしてみると宝塚の方がよっぽどおかしいんですよ。とんでもないの。伊勢神宮宮司さんだって仰天しちゃいますよ。今までの妃殿下で、そんなわっぱが入って、こんなになって、広がったのを来てらした方なんていなんですもの」

 皇室に新しい数を吹き込んだ美智子様のファッションは当時、流行の先端を行くものだったというが、それがこんな波紋を呼んでいた。

「私たちには不思議だったんです。だって、なぜいろいろお洋服のことだって、高松さん(高松宮紀久子妃)とか、あるいは女官長などにお尋ねにならなかったのか。だから美智子様はご損になった。ご存知ないのは当然ですけどね、あちらのお母様が『宮内庁に聞きましょう』って思われたとしても、役人なんかどういう洋服かなんて知りませんもの。特に戦後はね」*3

 

戦後には宮内庁のみならず、皇居の中全体が激変しただろうとある。

戦前の伝統に固執する勢力は、元皇族や元華族学習院卒業であることを誇りに感じる人達。

戦後15年くらいしか経っていない時で、皇室の慣習についての知識量は圧倒的に守旧派が勝っていたという。

「昔の侍従さんはなんでも知っていたんです。みんな華族の出身でしたからね。せめて、陛下の侍従さんとか香淳さまの女官さんに聞けばよくご存知だったでしょう。でも、東大卒の役人さんなんかに聞いたら『何でもいいんですよ』って言いますよ。戦後なんだから」

香子さんには、離脱させられた宮家や廃止された華族制度などの戦後の革命が昨日のことのように感じられるようだ。

大切に守り、引き継いできた伝統や文化が消えていくことへの哀惜の情が伝わってくる。

「昔の侍従さんはなんでも知っていたんです。みんな華族の出身でしたからね。せめて、陛下の侍従さんとか香淳さまの女官さんに聞けばよくご存知だったでしょう。でも、東大卒の役人さんなんかに聞いたら『何でもいいんですよ』って言いますよ。戦後なんだから」

 

子供を抱くのは異例のことだった

 話は問題になった写真のことに移る。

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香子さんは純子さんから直に聞いたことだとして、

古いしきたりでは赤ん坊を抱くのは女官なのだという。

たとえ皇孫殿下であっても、抱くのは女官なんだという。それより位の高い女官長でもないという。

香子さんも、母に抱かれたことはなく、専門の子守りの人がいた。

車に乗った時に純子さんがちょっとの間抱いていたら、

『赤ん坊は自分で抱かなきゃ』と美智子様が言われたという。

それは、古いしきたりを知っている者からしたら、変なのだそうだ。

 

改革についていけない純子さん

「後におば様がいらした時にね、『ねえ香子ちゃん、ひどいでしょ、赤ん坊の顔を見せろ、窓を開けろって、新聞記者たちが言ったのよ』って、その時のことをお話しくださったの。

病院の玄関を出たところにたくさん新聞記者の人達が待ち構えていて、血相を変えているあの人達の怖い顔が車の窓に映っていたんですって。それでおば様は、『絶対のお窓をお明けになってはいけません』って美智子様に申し上げたの。大勢のカメラマンが一斉にフラッシュを焚いたら新生児に良くないとわかっていたから。でも、美智子様はお開けになってしまって、ちょっとこういう風に赤ちゃんを見せるようになさったの。だからあとから、おば様が窓を開けさせなかったって、すごく悪者に書かれてました。意地悪したってね」*4

これ以降、意地悪な女官長の印象が定着してしまった純子さんですが、純子さんは「伝統としきたりを守る」という使命を負っていた。

「今の人は何でも『庶民的、庶民的』って言うでしょ。だからね、そのあともいろいろなことが起きたのだと思いますよ」

 

 学習院出身の女官の話し

私はね、美智子様はどうしてあんなに抵抗なさっちゃったのかしらと、拝見していて思うことがありました。お気の毒なことでもあります。抵抗なさるから、誰も何も言わなくなっちゃったの。それで、みんなの雰囲気というか目つきを見ると、こういう、みんな変な目つきをしているから『私はいじめられている』っていうふうな被害者意識がどんどん強くなって、そうするとますます他方の方達との関係が悪化したのではないかしら。だから、学習院出身の女官の方は他にもずいぶんお辞めになりました」もう時効だからいいでしょうと、香子さんは純子が誘って女官に上がった女性の名前を挙げた。聞けば、誰でも旧華族とわかる姓で母親も徳川家の出身だった。わけあって離婚して実家に戻っていたが、純子に声をかけられた。しかし、働き始めて間もなく、その女官の母親から、香子さんは散々愚痴をこぼされた。「たしかに、その方はちょっと手がのろいの。やることが遅いのは事実です。ご注意を受けては、毎日帰ってきて泣いているんですって。見かねたお母様が『もう牧野様には申し訳ないけれど娘はやめさせていただきたい』っておば様に願い出たの。そうしたらおば様はその娘さんに、『あなたは自分で生きていかなければいけないのだから、1年だけは我慢すれば、退職金が出るから』っておっしゃったそうよ」考えてみれば、女官には女官の言い分があったようだ。いずれも名家に生まれ、それだけの身分がある。だから、その辺の使用人と同じつもりでしつけようとされても無理があった。*5

 

試練をご自分で受けて立たれた、美智子さま

ファッションのみならず、言葉ひとつとっても、宮中は全くの異界と言えた。「ええ」と答えるのは失礼で「はい」でなければいけない。「はい、そうでございます」が正しい。「ありがとう」という言葉はあまり使わず、「おそれいります」が多用される。美智子さまにとっては、ずいぶんと不自然なことだらけだっただろう。香子さんに言われると「ご自分で受けて立たれたからすごいご苦労だったでしょう。それがご自分でちょっと種をまいているようにも見えて、だからそれに付随して意地悪をする人もあったと思いますよ。

私たちから見ると、ご実家の環境が最高に良いと思われていた。それが仇になったように見えました。正田家のお父様はとても穏やかな方だったそうですけどね」

 

最後に香子さんは

「私の考えですけどね、やっぱりおばさまにも非はありました。でもあそこまでこじれたのはどうだったのかって疑問です」

と話している。

 

純子さんは最後は宮内庁病院で息を引き取ったと伝えられる。

最後は、

正規のご成婚から59年。両陛下の改革の道のりは、今もなお続いている。数々の試練に対して、美智子さまはまっすぐな姿勢を貫かれた。その気高いお姿は、ずっと変わらない。

ーーーーーーー

記事に繰り返し出てくる両陛下が作り上げようとしている皇室とは?

 

この記事の中で繰り返し出てくるのは、純子さんが大切にしてきた伝統としきたりと、美智子さまと皇太子さまと作り上げようとしている新しい皇室との対立の話であることです。

 

最後の結びにも両陛下の改革の道のりは今もなお続いていると書かれている。

 

ただ、なぜ新しい皇室を作り上げなければいけないのかについては語られていない。

これも敗戦で、何もかも日本の伝統や古くからあるものが否定されたことに起因するのだろうか。

この改革の延長に、女性宮家があり、女系天皇があるのだとしたら、それは改革ではなく破壊に走っているとしか思えない。

 

香子さんの

「今の人は何でも『庶民的、庶民的』って言うでしょ。だからね、そのあともいろいろなことが起きたのだと思いますよ」

「そのあとにもいろいろなことが起きた」はどこらへんまでのことを含んでいるのでしょうか。

たしかに「普通の子と同じように」という言葉を皇族方の子育ての間、度々聞いてきたような気がするのですが、そもそもどうして「庶民の子と同じように育てる」という考えが皇室に入り込んだのでしょう。

昭和天皇のお人柄を思えば、昭和天皇のように育てることが正解だと思わなければいけなかったはずでした。

紀子さま悠仁さまを東大に入れたいと願い、庶民と同じ受験競争の中に未来の天皇を組み込んでしまうのは、究極の皇族の庶民化のような気がします。

 

皇室に改革が必要だと現・天皇皇后両陛下が若い時から思っていて、それを国民も是とした空気はなんだったのだろう。

確かにあの頃は皆が美智子さまを賞賛し、応援していたのだ。

  

宮内庁の訂正文

ーーー以下は、宮内庁の訂正文です。長くて細いことに驚きます。

 

*1

筆者は,「一方的な見解だという批判もあるかもしれない」が,「それは承知の上で,私はオーラルヒストリーとして,純子が香子さんの母親に語った体験談を採集しておきたいと考えた」として,事実の存否やその客観性,正確性の確認なく記述を進めていますが,この談話では,実際になかったことが事実として語られていたり,当時の状況を取り違えて話されているなど,これを放置することは読者に大きな誤解を与えかねず,宮内庁として記事についての事実関係を説明することにします。

 

*2

まず,ご成婚後の伊勢神宮参拝時の皇后さまのお洋服に関し,「スカートがパーッて広がっていて,針金がぐるぐる入っている・・・宝塚みたいなスカートをお召しになっていらした」とし,故女官長が「こうしたお洋服は伊勢神宮ではお召しにならないから,ちょっと針金を取らせていただくことにした」が,「妃殿下が針金をまた付け直していらしたんですって」との談話が記述されています。

しかし,この時,皇后さまがお召しのご参拝服に針金は入っていません。後年,ご処理の時に「覚え」として職員が残した絵型の付記からも明らかですが,何よりもこのことは,当時,このご参拝服が用意された経緯から言ってもあり得ないことです。

 

*3

「香子さん」は,「なぜいろいろお洋服のことだって,高松さん(高松宮喜久子妃)とか,あるいは女官長などにお尋ねにならなかったのか。」と語り,当時,皇后さまがお召しものについて誰とも相談なさらなかったと言っています。御婚約内定当時,東宮職には4人の参与がおり,その中の紅一点が,明治,大正と宮中に務め,昭和24年に東宮職参与を拝命した松平信子氏(秩父宮勢津子妃の母上で元外交官夫人)でした。ご婚約中の皇后さまのお支度は,高松宮妃殿下等に一部が委ねられた他は,この東宮職で唯一の女性参与であった松平氏にすべて託され,くだんのご参拝服も氏の指名したデザイナーが担当しています。なお,故女官長は,ご成婚直前ともいえる4月1日の拝命で,お支度には携わっていません。当時の皇后さまのお洋服は,その絵型がデザイナーから松平氏の手を経て,当時の香淳皇后付きの2人の女性御用掛(高木多都雄氏,河合りょう子氏)に回付され,このお二人は千代田区三番町の宮内庁分室における皇后さまの仮縫いにも立ち会っています。

このように,当時の皇后さまのお洋服の仕立ては,宮中の服装に関し,当時最も権威あるとされた人々の手を経て行われていたのですから,談話の内容は松平,高木,河合の3氏の責任を問うことになり,また,御結婚後10日に満たない妃殿下が,これから初めて神宮の参拝に臨まれようとする差し迫った時間に,針金を抜き取る云々というということがあったとすれば,それは香子さんが擁護しようとした故女官長の人格を却って傷つけかねないことになります。

 

*4

さらに,談話として,当時の浩宮さまご誕生後,宮内庁病院をご退院になるときの様子を「おば様は,『絶対にお窓をお開けになってはいけません』って美智子さまに申し上げたの。大勢のカメラマンがいっせいにフラッシュを焚いたら新生児によくないとわかっていたから。でも,美智子さまはお開けになってしまって,ちょこっとこういうふうに赤ちゃんを見せるようになさったの。だから後から,おば様が窓を開けさせなかったって,すごく悪者に書かれました。」との記述があります。

この事件については,後に八木貞二元東宮侍従が,その頃東宮大夫であった鈴木菊男氏から聞き,記録したメモを基に,文藝春秋に次のような文章を寄稿しています。

「ご退院を巡り,当時宮内記者クラブと担当の黒木従達東宮侍従との間で一つの押し問答があった。ご退院の時に取材があることを前日に申し上げた時に,まだお生まれ早々なので,フラッシュだけはたかないでもらえないだろうか,という妃殿下のご要望がおありであったのである。記者クラブはこれを却下した。戸外ならともかく,車中は無理だというのである。当時のカメラの性能は,今とは随分違った。フラッシュも強く,まだボンというマグネシウムもたかれかねない時代である。・・・そうした中で,このフラッシュについてだけは,重ねてお頼みになり,黒木さんは再び交渉した。クラブの人々は,何とかして新宮様をお抱きの妃殿下のよいお写真を頂きたいし,一方妃殿下は,何とかしてこの強い光の衝撃から新宮様をお守りになりたかったのだろう。結果として,記者クラブから代案が出された。もしフラッシュをたかないのであれば,お車の窓を開け,発進をゆっくりとし,時間をかけて撮影させて頂きたい,というものである。妃殿下はこの代案を受け入れ,窓をお開けになった。窓を開くか,フラッシュをたくか,二つに一つを選ぶ中での選択であった。」

 

 

*5

また,談話の中に,故女官長の推薦で仕えることになった学習院出身の女官について,「ご注意を受けては,毎日帰ってきて泣いているんですって。見かねたお母様が『もう・・・娘は辞めさせていただきたい』っておば様(故女官長)に願い出たの。そうしたらおば様は,・・・『1年だけは我慢しなさい。何があっても我慢すれば,退職金が出るから』とおっしゃったそうよ」との記述があります。

談話に該当する女官は,ご成婚時に採用された3人の女官の1人ですが,この女官はその後26年,これまでの女官全員の中でも2番目に長い期間(他の2名は12年,17年)勤務し,皇后さまは,その間,2度の外国ご訪問,国内の数多くの式典や地方行啓にこの女官をお連れになっています。

また,「学習院出身の女官の方は他にもずいぶんお辞めになりました」との記述もありますが,故女官長の在職中に拝命したり,退職したりした学習院出身の女官は一人もありません。この女官の次に出仕した学習院出身者は,故女官長の後任の松村淑子,井上和子,濱本松子の3人の女官長で,いずれも務めを全うしています。皇后さまは,宮中生活のほとんどをこれらの学習院出身の女官長の支えを得て送られてきました。

 

 

宮内庁訂正文の結びには、

事実が基にあれば,それに対する様々な見方があって構いません。

しかし,今回の記事は,実際にあった事実を基にするのではなく,母親を介し,又は自らが伝聞したという「香子」さんの記憶だけを採録し,それを事実として筆者自身の「見方」を述べたものです。宮内庁としては,ご譲位を来年に控え,ご高齢のお体で最後のお務めを果たされている両陛下について,今更のように第三者の語る当時の噂話が十分な検証や当時の状況説明もなく世間に流布されることは放置すべきでないと考え,宮内庁ホームページで改めて当時の事実関係を説明すると共に,筆者及び出版社にこの内容を通知することにしました。

 

ーーーー

宮内庁美智子さま)に否定されて反論できる人はいない

これらの訂正について、正しいのかどうなのか、庶民には知る由もありません。

宮内庁美智子さま)が言うのなら、それ以上反論ができる人がいないということだけはわかっています。

ただ、少なくとも牧野純子さんが美智子さまに意地悪をしたとレッテルを貼られてきたことは事実です。

その牧野純子さんは生前、何も語らず亡くなっています(私が知る限り)。

上の訂正文には意地悪のレッテルを貼られ、今は故人となった純子さんに対し、一方的に話を否定するだけなのです。

そのレッテルを否定することもなく、

御結婚後10日に満たない妃殿下が,これから初めて神宮の参拝に臨まれようとする差し迫った時間に,針金を抜き取る云々というということがあったとすれば,それは香子さんが擁護しようとした故女官長の人格を却って傷つけかねないことになります。

“擁護しようとした”、“故女官長”と書くところに、皇后の生々しい感情が出ていているようで、怖いです。

 

両陛下の改革とは

美智子様が皇太子様と作り上げようとしてきた新しい皇室は、どういうものだったのでしょうか。

少なくとも結果を見れば、宮内庁長官を無視して、皇族に近い職員やマスコミのリークから、憲法違反の生前退位を実現させてしまったり、同じ手法で退位後のお住まいから、活動なども勝手に決めてしまったり、目下のところ皇族の願いをかなえるためなら手段を選ばずの暴走になっていることについてはどう思うのでしょう。

小室さんみたいなのを裁可してしまい、天皇の裁可は重いからと破談にもできずにダラダラ延期にして、税金を垂れ流していたり。

国民の声は雑音、眞子さまの結婚は眞子さまの意思が何より尊重されるとか、これが両陛下が長年改革してきた皇室の姿なのだとしたら、こんな皇室はいらないです。