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週刊誌報道などを紹介しながらネットの反応などの記録と感想を書いてるブログ

天皇は男系の血だけが必要で、直系とか傍系とかはどうでもよかった

天皇はただただ、男系の血を求めてつなげてきた。

旧宮家に男系男子の血を引く人はたくさんいるらしい。悠仁さまと同じ年頃の子供もいるという。


[眞子様・小室さんの婚約会見当日まで!]マスコミが何かとプッシュする女性宮家創設。女性宮家の先にあるもの

 

直系、傍系の議論の元はここ?

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ゴヨウツツジの会が新聞に出した意見広告。

「今上陛下、皇太子殿下の直系、女性天皇(つまり愛子天皇)を支持します。」

 

この直系について、ツイッターの反応

 

そもそも今上陛下に繋がる光格天皇が傍系です。

  

 

 

 

というわけで光格天皇を調べてみました。

 

光格天皇の3代前の桜町天皇から。

 

桜町天皇から光格天皇前の後桃園天皇までは、江戸時代中期。

 

徳川8代将軍・吉宗、9代将軍・家重、10代将軍・家治の時代。

 

桜町天皇は、15歳で践祚(即位)します。

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27歳で息子に譲位して、院政を開始しますが、3年後、寛延3年(1750年)、当時「江戸患い」と言われていた脚気にかかり、31歳で崩御してしまいます。

桃園天皇は、桜町天皇に譲位された時わずか、6歳。その3年後には父親も亡くなってしまったことになります。

 

 その後、桃園天皇も、22歳で薨去崩御)します。

この時、子の英仁親王はまだ、5歳。

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桃園天皇も、6歳で天皇になっているので、英仁親王が即位してもおかしくないのですが、この当時、幕府による尊王論者弾圧事件、宝暦事件が起きたことなどもあり、英仁親王がすぐに即位するよりも、後桜町天皇が一度くらいに着いた方が良いということになりました。

この時、後桜町天皇(智子内親王)は22歳。

 

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その後、後桜町天皇は、英仁親王元服する年齢13歳になると、譲位し、後桜町天皇上皇に、英仁親王は後桃園天皇になります。

後桜町天皇が、上皇になった時の年齢は30歳

 

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ところが、後桃園天皇は、若いころから病気がちで、1779年、目立った業績のないまま22歳で亡くなってしまいます。

 
 

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桃園天皇には皇子が生まれておらず、子供は生まれたばかりの欣子内親王だけ。

皇統断裂の危機です。

そこで選ばれたのが閑院宮の祐宮(すけみや)親王天皇になる時に、兼仁と改める)でした。

 

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祐宮(すけみや)親王は、当時8歳。

践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の桃園天皇の養子となり、儲君(皇位継承順位1位にある皇子)に治定される(実際には後桃園天皇は前月に既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。

欣子内親王中宮(妃、または皇后)とする事で、皇統の正当性を示しました。 

 

 閑院宮とは?

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桃園天皇から遡ること7代前にも皇統の危機があり、江戸幕府新井白石が、徳川にも御三家があるように「血」のスペアを用意しておくべきだと上申して作られたのが閑院宮

既にあった3つの宮家に新しくもうひとつ閑院宮を加え4つの宮家に増やした。

当時は後継者以外の皇子は、摂関家の養子になるか世襲親王家の養子になる以外は全て出家しました。

閑院宮の初代直人親王は113代東山天皇の第六皇子で、光格天皇はその孫にあたります。

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傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。

光格天皇 - Wikipedia

 

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この図は、個人的に興味深かったので入れました。

欣子内親王(1779年〜1846年)

(皇后在位期間 1794年4月6日 - 1820年4月26日)

15歳から26年間、が皇后でした。

内親王が皇后になったのは、460年振りのことだそうです。

その後、光格天皇仁孝天皇に譲位すると41歳からは皇太后

1840年に光格天皇崩御すると、翌年1841年に出家して女院号宣下を受け、新清和院と称される。

67歳で崩御

 

二人の親王がいますが、二人とも早くに亡くなっています。

 

欣子さま21歳の時、温仁親王(ますひとしんのう、1800年2月15日〜1800年4月27日)を出産。生後44日で、儲君(皇位継承順位1位)に治定されるも、その8日後(4月27日)に夭折してしまう。

 

その後、藤原婧子( ただこ)さんの生んだ第四皇子、寛宮恵仁(のちの仁孝天皇)が儲君(皇位継承順位1位)となることになったため、その際、寛宮を自身の実子として公称したそうです。

欣子さまはこの時、28歳。

 

年表を見ていると寛宮恵仁(のちの仁孝天皇)が生まれたのは、欣子さまが温仁親王(ますひとしんのう)を生んだのと同じ年です。

1800年の、

温仁親王(ますひとしんのう)は2月15日生まれ、

寛宮恵仁(のちの仁孝天皇)は10月31日生まれ。

女性としては色々思うところがありそうですね。

 

欣子皇后は光格天皇仁孝天皇に譲位した1817年、41歳で皇后の座を退いていますが、その4年前、36歳でに第七皇子悦仁親王を1816年2月25日に出産しています。

この時代に36歳で出産というところに何か執念のようなものを感じます。そして、残念なことに、こちらの親王も6歳で夭折し、これにより中御門天皇からの皇統は完全に途絶えてしまいます。

欣子さまの晩年は、“心の病によって御所を彷徨い出て、後桜町院の怒りに触れた"という記事が『思ひのままの記』に書かれているそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/欣子内親王

無理もないですよね。自分の子供が二人とも亡くなって、中御門天皇からの皇統も途絶えてしまって、とてもお辛かったと思います。

 

典待の藤原婧子さんの生んだ親王、寛宮恵仁( 仁孝天皇)は、1817年、17歳で践祚(即位)し、45歳で崩御しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/温仁親王

 

勧修寺婧子さんは、

徳川家康の実子である松平信康(妻は織田信長の娘である徳姫)督姫、結城秀康徳川頼宣の子孫であるため、仁孝天皇以降の天皇とその子孫にあたる現在の皇族(男性皇族との婚姻により皇族になった女性皇族を除く)は織田信長徳川家康の子孫にもあたる(ちなみに、大正天皇の皇后である貞明皇后徳川家康の実子である結城秀康徳川秀忠徳川義直の子孫であるため、その方面からも家康の血が流れている)

勧修寺ただ子

 

 

こうしてみると、仁孝天皇は表向きは欣子皇后の子としたようですが、やはり実の母親である、典待の藤原婧子さんが、欣子皇后よりもずっと影響力を持っていることがわかります。当然と言えば当然なんですが。

この勧修寺婧子さんから今の天皇家に徳川家の血が入ったということです。

 

そして、その光格天皇の系譜が現在の今上陛下へと続いています。

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桃園天皇が亡くなって、欣子内親王だけになってしまったときの、皇統の危機。

ここは、悠仁さまが生まれる前の平成の皇室と似てますね。

 

このときに、欣子天皇でいいじゃん、次は欣子天皇の子供でいいじゃん、とならなかったのは、「男系の血でつなぐ」という皇位継承の基本ルールをきっちり守ったから。

男系男子継承は“絶対”だったわけです。

 

ことの重要さを知らない、平成の民が訳も分からず、女性天皇女系天皇に賛成して、決まらなくて本当に良かった。

今は悠仁さまがいるというのに、まだ愛子天皇、長子継承と言っているのはどういうことなんでしょうか。

ここはきちっと男系男子で継承させていかないと。

その上で、皇族の減少をどうするかというのなら、やっぱり旧宮家復帰しかありません。